誰に言うでもなく自分に一番言っている

yojikです。



立川で障害のある4歳児が母親が倒れて亡くなったあと、助けを呼べずに
マンションの部屋で餓死していたとニュースがあった。

さいたまでも中年の息子と年老いた両親の家族が餓死した。

ミクシのニュースに対する日記にはたいていウジが湧いてるから
絶対見ないように気をつけているにもかかわらず、つい見えてしまったのだ。

そこには
高齢出産の母親と障害を持つ子どもを汚くて貧しい言葉で揶揄する、
見事にウジの書いたウジ的な文章があった。


病気ひとつ、仕事ひとつで誰でもあっというまに瀬戸際の状況になる。

簡単にそうはならないようにしているといっても、
なにがどう重なって起きるかは誰にもわからない。

私はそういう状況が
ニュースのたびに自分の生活にシミュレートされ、
目に現実のように浮かんでくる。
とても怖い。
かわいそうとかそんな人ごとではあり得ない。

たとえば
会社が突然いやになってやめてしまう。ありますよね?
思ったより就職は厳しい。
失業保険はすぐに切れた。
驚くほど自分にできる仕事は少ない。
となったときに、そこにふっと何かが追い打ちをかけたら
下まで落っこちて行くのは簡単ではないですか?
私たちはあひるみたいに、常に水面下で足をバタバタ動かして
生きている。


昔からそうだけど、人を追い込んでいくのは
原発だけではないのだと思う。


自己責任という言葉は誰かにとって都合がいい。
使うならよくよく考えて使ったほうがいい言葉だと思っている。
誰の世話にもなってないと本気で思っていると簡単に
この言葉は出てくる。
自分も若いときはどこかにこの考えがあった。
今だって余裕がなくなれば、誰かに責任を負わせてすっきりしたい
気持ちは魔物みたいにひそんでいる。


頑張れた人は、自分が頑張れたからと人にそれを
適用するのはやめたほうがいい。
当たり前だけどあなたと誰かは同じではない。


ふざけた人生を送っている自分だけれど、
生きさせてもらっている以上は、
自分だけがきれいなまま生き残れるようなことはないのだと肝に命じておきたい。
自分は手を汚さないでいられる安全地帯などあると思っているなら幻想か、もうすでにカルトに入っているはずだ。
常に誰かの犠牲の上に命はあって、
それは全然いいことではないけれど、
その犠牲は持ち回りみたいなもんだとも思う。
自分がうまくすりぬけたからといって、
すりぬけられなかった人を責めたり見てみないふりをするのは
どうしても違うと思っている。


できる限り周囲に生活者としての目を向ける余裕が自分にあらんことを。


自分で助けを呼ぶことすらできない小さな子どもが
マンションの部屋でひとり残されて死んで行くなんて
どんなホラーと比べたって比べ物にならないほど痛ましい。
お母さんとお子さん、もうこれ以上は悪いことは起きないから
天国でいつも一緒でいられたらいいと思う。


衰弱死:障害児、自宅で 母病死…2カ月気づかれず 
東京 - 毎日jp(毎日新聞) http://mainichi.jp/select/today/news/20120222k0000e040218000c.html