サイダーハウス・ルール

昨日は月がきれいだった。
雲があるときの月のほうが好きです。
今日は残念ながら見えない。
月見団子を作って食べた。


サイダーハウス・ルールを読んでいる。
映画をみたので読んでみたくなった。
かなり大事な部分を映画では削ったのだと思った。
しかし映画がそれで間違っているとは思わない。
とてもよくできていて、見ているとき何の
違和感もなかった。
シャーリーズセロンがすごくいい。
こんな女性好きにならずにいられるわけないって
いう原作の感じが出てて。

が、原作者のジョンアーヴィングが
脚本を書いたというのに驚く。
だいたいが原作者は映画化にケチをつけるけども
自分で書いたんだからケチのつけようがない。

みずから、このエピソードもこの魅力的な登場人物も
削ったのか、と思うとすごい意思の力を感じる。
自分に酔わない力がある。


今次のアルバムを作っていて、
そろそろ録音が終わる。
今回は半分以上の録音作業を自分たちで
進めているので、自分で自分を律するというか
人にゆだねる気楽さがまったくない。
喜んだり絶望したりしながら、進んで行く。
みなさん同じかと思うけれど、
ミックスを長く続けていると、何が正解か
まったくわからなくなってきたりする。
私だけでもできるだけ中立な立場になって
聴こうと思いつつ、やはり自分が歌って
いるのでそう冷静にもなれない。

そこでアーヴィングの脚本の件を思うと、
映画という作品のときは映画のために、
小説という作品のときは小説のために、
自分が生み出したものなのにそれを
突き放して見られるあたり、とても
特殊な人なのではと思ったりする。

映画のために、っていうと
なんだか作品を面白くするためには
自分を捨てるみたいに聴こえるかもだけど
実はそれは矛盾してない気がする。
けど自分を生かすために自分を捨てるって
言うと禅問答みたいですね。



ミックスの細かい違いで世界がばっと
広がってこれは人に聴かせられる!という
瞬間が来るととてもうれしいのだけれど、
同時に気づいたのは。
サイダーハウスルールも、映画と小説の
フォーマットの違いはあるけれど、
そもそも
映画なら脚本、小説ならそのものが
面白くなくては、音楽なら曲が良くなくては
つまり内容に本人にとっての必然がなければ
どんだけ良い俳優を使おうと
良い楽器で演奏しようと、
ミックスにこだわろうと
そこには茫漠とした無が広がってしまう。



曲が良いかどうか、それは聴く人に
判断してもらうことだから
自分では何も言えないけど、
良いと思える曲で音源を作れていることは
ほんとうによかったし幸運だ、と思う。
そうでなくては、
そもそも音楽をやる必要自体がない。
音楽のために音楽をやりたいのではないから。
でも音楽でしかできないことを
音楽でやろうとしてるのだから。



気を抜かずに
最後までがんばります。


9月は2つのライブが続けてあります。
14日に小岩、15日に下北沢、
よかったら聴きにきてください!



●9月14日(日)
小岩Bushbash
マコメロジー/yojikとwonda /sheep /てかて
open/start :18:00/18:30
前売り/当日:1800円/2000
http://bushbash.org/

●9月15日(月祝)
下北沢lete
yojikとwandaワンマン
料金:予約2,000円当日2,300円(ともに+1D)
開場19:00 / 開演20:00
予約:お店http://www.l-ete.jp/
yoyaku.yowan@gmail.comまでどうぞ